此処で会ったも何かの縁、此処に来たのも何かの縁
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【保育園時代】
ひたすら男の子と遊んでた記憶しかない。
仮面ライダーを見てはかっこいいとマネをし、
昼寝の時間は友達と喋って、
TVゲームやフットボールが大好きだった。
この頃からすでに女扱いが嫌いだったようで、
自分の事を「私」と絶対言わなかった。
ある日、母親の友達の子(男の子)から
「変だよー」と言われて散々悩んだ挙句、
僕と言いたい。でもそう言うと祖母に怒られる。
と何故か判っていて、
家という意味もあるからと
〝ウチ〟と言うようになった。
(めちゃくちゃ悩んでた記憶が強烈に残ってるんだよなぁ)
これも定着するまでかなりの時間を要したんだけど…
日々で言えば、
祖母好みなのか長髪にされていた髪をうっとおしいと思ってたり、
スカートが嫌いだったり。
ヒーローものの影響か
〝女の子は俺が守らなきゃ〟 と思っていて、
よく無駄にはりきって
女の子たちから「何やってるん?」
と、冷静なコメントをいただいていた(´ヘ`;)
保育園生活で忘れちゃならないのが遠足的なイベント。
もともと写真が昔から苦手だった俺は
常にどっかに行っていたりそっぽ向いてたりして、
とにかく落ち着きのない子
と言われていたが、
水泳というか、プールに行くというイベントがあって
海パンで泳げないのが嫌でたまらなかった。
最後の集合写真では、
ものっすごい作り笑顔で笑う写真 があったりする。
その写真は今見ても気持ち悪いと思ってしまうorz
それ以外は、
保育園ではあんまり男女で分けられることがなかったからか
(女の子なんだから~とか言うことは言われなかった)
結構気ままな子だったと思う。
ちなみに、
保育園のトイレはどうしていたか覚えてない。
とりあえず女子の方に入ってたとは思う。
しかし、記憶に残っているのは男子便の記憶。
小の方の排泄口に、よく黄色い虫(ウジ虫?)がちょろちょろしていた。
(いい記憶ではないなぁ)
家では、
小さい頃からわんぱくだった俺は、
しょっちゅう祖母に怒られた。
この後祖父の話も出てくるけど、
とにかくこの家の教育は、ちょっとズレたスパルタだった。
言うことを聞かないと殴る・蹴るは当たり前。
夕飯のしつけが一番恐怖で、
苦手なもの(トマト)は口に入れた瞬間
無条件で胃の中丸ごとリバースだったんだけど
リバースしそうになった瞬間、頭部に激しい鈍痛。
その斜め後ろには拳を構えた祖母。
口までリバースしたものを無理やり飲み込まされた。
もう食事とは言えないが、
食事をはじめ、なんでも言うことを聞かないと
「もうお前なんか育ててやらん。」
と、言いだし、
下手したら荷物をまとめて出ていく。
俺の腹の中では
「育ててくれなんていった覚えはない」
という気持ちだったが、
それを言ってしまえば収集がつかない事ぐらい
幼い俺でも分かっていたし、
祖母を母が帰るまでに連れ戻さないと今度は母が恐ろしい。
そうこうするうちに、
俺は自分の主張を通す前に、
自分で考える前に、
ごめんなさい。という癖がついた。
そしてさらに、
幼心でも物を言い出しにくくなる一件がくる。
我が家は祖父が強かった。
いい意味ではなく。
祖母が祖父の顔色をうかがってるのは何となく気づいていたし、
酔った家族の思い出話で
母が言うことを聞かないと
足を縛られて天井から逆さづりにされた とか、
とにかく良い教育を聞かなかった。
そして忘れもしない5歳のある日、
俺は 祖父が物凄い勢いで祖母を殴りつけている のを見てしまった。
理由もよく分らなかったけど、一方的すぎる暴力。
その後、祖母はいつも俺を叱るように言い返すかと思ったら何も言わない。
母は自分の仕事があったし、実質育ててくれたのは祖母。
同情というわけではないけど、
この日から俺はより一層祖母を立てるように接するようになる。
祖父から祖母を守れない。
俺はこの人に守られてちゃいけない。
ただ、弱い自分に自覚があった。
〝守る〟という単語でもう一つ
幼い頃は分からなかったが、
借財に追われ
いつも仕事に明け暮れていた母親との会話。
「お母さんはお父さんとして頑張って働いてくるから
あんたはお母さん代わりに家守るんやで」
〝お母さん〟という単語にすでに拒否感があった。
俺は〝お父さん〟がいい。
ただ〝守る〟という言葉がカッコよくて
恐らく今でも評判としていただく
「巧なら何とかしてくれそう」
という言葉や、
〝自分の持ち場は守り通す〟
という仕事中の信念的なもの、
有事の時には否でもスイッチが入る性格の
根源であることは間違いない。
自分の事を「私」と絶対言わなかった。
ある日、母親の友達の子(男の子)から
「変だよー」と言われて散々悩んだ挙句、
僕と言いたい。でもそう言うと祖母に怒られる。
と何故か判っていて、
家という意味もあるからと
〝ウチ〟と言うようになった。
(めちゃくちゃ悩んでた記憶が強烈に残ってるんだよなぁ)
これも定着するまでかなりの時間を要したんだけど…
日々で言えば、
祖母好みなのか長髪にされていた髪をうっとおしいと思ってたり、
スカートが嫌いだったり。
ヒーローものの影響か
〝女の子は俺が守らなきゃ〟 と思っていて、
よく無駄にはりきって
女の子たちから「何やってるん?」
と、冷静なコメントをいただいていた(´ヘ`;)
保育園生活で忘れちゃならないのが遠足的なイベント。
もともと写真が昔から苦手だった俺は
常にどっかに行っていたりそっぽ向いてたりして、
とにかく落ち着きのない子
と言われていたが、
水泳というか、プールに行くというイベントがあって
海パンで泳げないのが嫌でたまらなかった。
最後の集合写真では、
ものっすごい作り笑顔で笑う写真 があったりする。
その写真は今見ても気持ち悪いと思ってしまうorz
それ以外は、
保育園ではあんまり男女で分けられることがなかったからか
(女の子なんだから~とか言うことは言われなかった)
結構気ままな子だったと思う。
ちなみに、
保育園のトイレはどうしていたか覚えてない。
とりあえず女子の方に入ってたとは思う。
しかし、記憶に残っているのは男子便の記憶。
小の方の排泄口に、よく黄色い虫(ウジ虫?)がちょろちょろしていた。
(いい記憶ではないなぁ)
家では、
小さい頃からわんぱくだった俺は、
しょっちゅう祖母に怒られた。
この後祖父の話も出てくるけど、
とにかくこの家の教育は、ちょっとズレたスパルタだった。
言うことを聞かないと殴る・蹴るは当たり前。
夕飯のしつけが一番恐怖で、
苦手なもの(トマト)は口に入れた瞬間
無条件で胃の中丸ごとリバースだったんだけど
リバースしそうになった瞬間、頭部に激しい鈍痛。
その斜め後ろには拳を構えた祖母。
口までリバースしたものを無理やり飲み込まされた。
もう食事とは言えないが、
食事をはじめ、なんでも言うことを聞かないと
「もうお前なんか育ててやらん。」
と、言いだし、
下手したら荷物をまとめて出ていく。
俺の腹の中では
「育ててくれなんていった覚えはない」
という気持ちだったが、
それを言ってしまえば収集がつかない事ぐらい
幼い俺でも分かっていたし、
祖母を母が帰るまでに連れ戻さないと今度は母が恐ろしい。
そうこうするうちに、
俺は自分の主張を通す前に、
自分で考える前に、
ごめんなさい。という癖がついた。
そしてさらに、
幼心でも物を言い出しにくくなる一件がくる。
我が家は祖父が強かった。
いい意味ではなく。
祖母が祖父の顔色をうかがってるのは何となく気づいていたし、
酔った家族の思い出話で
母が言うことを聞かないと
足を縛られて天井から逆さづりにされた とか、
とにかく良い教育を聞かなかった。
そして忘れもしない5歳のある日、
俺は 祖父が物凄い勢いで祖母を殴りつけている のを見てしまった。
理由もよく分らなかったけど、一方的すぎる暴力。
その後、祖母はいつも俺を叱るように言い返すかと思ったら何も言わない。
母は自分の仕事があったし、実質育ててくれたのは祖母。
同情というわけではないけど、
この日から俺はより一層祖母を立てるように接するようになる。
祖父から祖母を守れない。
俺はこの人に守られてちゃいけない。
ただ、弱い自分に自覚があった。
〝守る〟という単語でもう一つ
幼い頃は分からなかったが、
借財に追われ
いつも仕事に明け暮れていた母親との会話。
「お母さんはお父さんとして頑張って働いてくるから
あんたはお母さん代わりに家守るんやで」
〝お母さん〟という単語にすでに拒否感があった。
俺は〝お父さん〟がいい。
ただ〝守る〟という言葉がカッコよくて
恐らく今でも評判としていただく
「巧なら何とかしてくれそう」
という言葉や、
〝自分の持ち場は守り通す〟
という仕事中の信念的なもの、
有事の時には否でもスイッチが入る性格の
根源であることは間違いない。
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無題
自分と戦いながら、家庭でも色々あって、大変だったんでしょうね。
こんなに小さい頃から色々経験してるなんて、俺には考えられません。
俺なんか保育所の頃の事なんて、さっぱり覚えてないのに…印象強い出来事たくさんあったんですね。
また続き書けたら読ましてもらいます。
こんなに小さい頃から色々経験してるなんて、俺には考えられません。
俺なんか保育所の頃の事なんて、さっぱり覚えてないのに…印象強い出来事たくさんあったんですね。
また続き書けたら読ましてもらいます。
Re:無題
海波さん
こんな感じの家庭は、きっと沢山あるんだろうし
もっとひどい話を沢山聞いてきたので、あんまり大変だった感はなかったりします。
言葉ではついついキツいと言ってしまうんですけどね;
むしろこういう事は経験しなくてもいいもので、知らないのが普通だと思うので、海波さんは今を大切にしてください^^
GIDの話なんだか、俺の辛気臭い過去の話なのかよく分らんような状態で申し訳ないですが、また見てやって下さい。
こんな感じの家庭は、きっと沢山あるんだろうし
もっとひどい話を沢山聞いてきたので、あんまり大変だった感はなかったりします。
言葉ではついついキツいと言ってしまうんですけどね;
むしろこういう事は経験しなくてもいいもので、知らないのが普通だと思うので、海波さんは今を大切にしてください^^
GIDの話なんだか、俺の辛気臭い過去の話なのかよく分らんような状態で申し訳ないですが、また見てやって下さい。
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PROFILE
HN:
佐々木 巧
年齢:
38
性別:
非公開
誕生日:
1987/02/04
職業:
会社員(現在天職求職中
趣味:
バイク、ゲーム、インテリア
自己紹介:
性同一性障害(GID)として人生を歩んでいます。
会社のこと、彼女のこと、家族のこと、そして自分自身のこと
悩むことは沢山あるけど、それでも何とか生きてます。
会社のこと、彼女のこと、家族のこと、そして自分自身のこと
悩むことは沢山あるけど、それでも何とか生きてます。
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